讃阿弥陀仏和讃


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讃阿弥陀仏偈和讃

一 弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまわり
  法身の光輪きわもなく
  世の盲瞑をてらすなり

法蔵菩薩が誓願を成就されて、阿弥陀仏になられてから。既に十劫の長い時間が過ぎている。弥陀仏の真理の身から放たれた光は、全宇宙にゆきわたっていて、煩悩に迷っている衆生を照らしています。

二 智慧の光明はかりなし
  有量の諸相ことごとく
  光暁かぶらぬものはなし
  真実明に帰命せよ

弥陀の智慧の功徳は限りがない。だから、限りある命をもつすべての生きとし生けるものは、その功徳にあずからぬ者はいない。真実の功徳をもたれている阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。

三 解脱の光輪はきわもなし
  光触かぶるものはみな
  有無をはなるとのべたまう
  平等覚に帰命せよ

衆生を悟りに導かれる弥陀の光は、あまねく全宇宙を照らしている。その光を受けている衆生は迷いの見解を離れると説かれた。一切衆生を等しく救われる弥陀をひたすら頼みとしなさい

四 光雲無礙如虚空
  一切の有碍にさわりなし
  光沢かぶらぬものぞなき
  難思議を帰命せよ

何ものも妨げることが出来ない弥陀の光は、虚空の如くあまねくゆきわたっている。如何なる障害にも邪魔されず、その光に照らされている衆生に智慧を与えています。人の思慮の及ばない徳をもたれている阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

五 清浄光明ならびなし
  遇斯光のゆえなれば
  一切の業繋ものぞこりぬ
  畢竟依を帰命せよ

阿弥陀仏の清浄な光は、ほかにならぶものがないほどに優れている。この光に照らされるゆえに、我々は無限の過去から、つくりつづけている悪業の束縛から解き放たれ、地獄に落ちることがない。一切衆生の最後の拠り所である阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。
六 仏光照曜最第一
  光炎王仏となづけたり
  三途の国闇ひらくなり
  大応供を帰命せよ

阿弥陀仏の光の輝きは最も優れたものである。それゆえに、光炎王仏とも名づけられる。地獄・餓鬼・畜生という迷いの暗黒をも取り除かれて、光明を得ることが出来る。すべての衆生が全身全霊を捧げるにふさわしい阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

七 道光明朗超絶せり
  清浄光仏ともうすなり
  ひとたび光照かぶるもの
  業垢をのぞき解脱をう

弥陀の悟りの身から放たれた光明は明朗であり、ほかのものを超えて優れている。それゆえに、清浄な光の仏と名づけられる。一度この光に照らされた衆生は、悪業煩悩を除かれて、悟りを開かせていただける。



八 慈光はるかにかぶらしめ
  ひかりのいたるところには
  法喜をうとぞのべたまう
  大安慰を帰命せよ

弥陀の慈悲の光は、はてしない遠方をも照らしてくださる。光をあびた人びとは、救いの教えに出会えた喜びを満喫する。煩悩に苦しむ人びとに大きな安心と慰めを与えてくださる阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。

九 無明の闇を破するゆえ
  智慧光仏となづけたり
  一切諸仏三乗衆
  ともに嘆誉したまえり

我々の無知の闇を破っていただいた仏の智慧を備えた仏を智慧光仏と名づけられる。全宇宙の御仏たちも、仏道修行に励んでいる菩薩や縁覚や声聞も共にこの智慧光仏を誉め讃えておられる。

十 光明にてらしてたえざれば
  不断光仏となづけたり
  聞光力のゆえなれば
  心不断にして往生す

阿弥陀仏の光明は、絶えず人びとを照らしている。それゆえに、不断光仏と名づけられる一切衆生をたえず照らして守っていただいている弥陀の光の功徳を信じるゆえに、命が尽きるまで安心の心は絶えることなく、往生できるのである。

十一 仏光測量なきゆえに
   難思光仏となづけたり
   諸仏は往生嘆じつつ
   弥陀の功徳を称せしむ

阿弥陀仏の光明の功徳は、誰もが推し測ることが出来ないくらいに優れている。それゆえに、難思光仏となづけられる。全宇宙の御仏たちは、悪業の凡夫をも往生させれれる難思光仏を嘆称され、その功徳を称讃される。

十二 神光の離相をとかざれば
   無称光仏となづけたり
   因光成仏のひかりをば
   諸仏の嘆ずるところなり

阿弥陀仏の神の力のような光明は、姿は見えないが、絶対の功徳である。その功徳を表現する言葉はなく、説明も出来ない。ゆえに、言葉を超えた無称光仏となづけられる。この無称光仏をすべての仏が誉め讃える。

十三 光明月日を勝過して
   超日月光となづけたり
   釈迦嘆じてなおつきず
   無等等を帰命せよ

阿弥陀仏の光明は太陽や月よりはるかに優れている。それゆえに、超日月光仏と名づけられる。釈尊がこのことを讃えられて、言葉を尽くしても説明出来なかった。ほかに等しいもののない、たぐい稀な阿弥陀仏をひとえに頼みとしなさい。

十四 弥陀初会の聖衆は
   算術のおよぶことぞなき
   浄土をねがわんひとはみな
   広大会を帰命せよ

阿弥陀仏が仏と成られた時、その場に集まっておられた聖なる衆は数え切れないほど多かった。浄土への往生を願う人びとは阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

十五 安楽無量の大菩薩
   一生補処にいたるなり
   普賢の徳に帰してこそ
   穢国にかならず化するなれ

安楽の浄土にいる無数の菩薩たちは、仏となられて、菩薩の最高の位をきわめられる。そのうえ、最高の慈悲である普賢菩薩になられて、再び迷いの俗世に還って来られる。そして、衆生を教え導かれて浄土に往生させられる。



十六 十方衆生のためにとて
   如来の法蔵あつめてぞ
   本願弘誓に帰せしむる
   大心海に帰命せよ

浄土の菩薩たちは、衆生を救うため、修行されて功徳を得られて、その功徳によって衆生を教え導く力を身につけられ、弥陀の本願に人びとを帰依させられる。広大な御心の阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

十七 観音勢至もろともに
   慈光世界を照曜し
   有縁を度してしばらくも
   休息あることなかりけり

観世音菩薩と勢至菩薩は共に、全ての衆生を救うべく、慈悲の光で、全宇宙を明るく照らされる。縁につながった人びとを悟りへ導かれる。そのような行為は、ひと時も休むことなく続けられています。

十八 安楽の浄土にいたるひと
   五濁悪世にかえりては
   釈迦牟尼仏のごとくにて
   利益衆生はきわもなし

安楽の浄土に往生して悟りを開いた人びとは、再び悪の多い現世に還り来たって、釈迦牟尼仏と同様に、衆生に安らぎを与える行為を、続けることができます。

十九 神力自在なることは
   測量すべきことぞなき
   不思議の徳をあつめたり
   無上尊を帰命せよ

浄土の菩薩たちはが神通力を備えて、自由自在の働きを為している様子は、我々には、とても推し測れるものではない。その菩薩たちの働きは、弥陀が行われた計り知れない功徳のたまものである。この上なく尊い阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

二十 安楽声聞菩薩衆
   人天智慧ほがらかに
   身相荘厳みなおなじ
   他方に順じて名をつらぬ

安楽の浄土におられる声聞も菩薩も人間も天人も、全て、仏の智慧を得ている。姿や身を飾っているものも同じであり、異なるところはない。呼び名だけに違いがあるのは、差別のある世界に似せて、そのように呼んでいるにすぎないのである。



二十一 顔容端正たぐいなし。
    精微妙躯非人天(しょうみみようくひんんでん)
    虚無之身無極体(こむししんむごくたい)
    平等力を帰命せよ

浄土の菩薩の顔の様子は端正であり、他に比べるものはない。身体つきは精妙であって、人間や天人の身体つきを超えている。色も形もなく、真理そのものが悟った身であるからである。このような平等の悟りを得られた阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。

二十二 安楽国を願うひと
    正定聚(しょうじょうじゆ)にこそ住するなり
    邪定不正聚(じゃじょうふじょうゆ)くにになし
    諸仏讃嘆したまえり

安楽の浄土への往生を願う者のすべてが必ず仏とれる。自力の善をたのむ、成仏が不確か者も、自力で念仏する者も、ともに浄土には生まれない。全宇宙の御仏たちが、このような浄土を讃嘆している。

二十三 十方諸有の衆生は
    阿弥陀至徳の御名をきき
    真実信心いたりなば
    おおきに所縁を慶喜(きょうき)せん

一切の衆生が阿弥陀の功徳ある御名を聞いて、その功徳をもって往生させてもらえることを疑いなく信じるならば、必ず称える名号を身体全体でもって、喜ぶことであろう。

二十四 若不生者(にゃくふしょうしゃ)のちかいゆえ
    信楽(しんぎょう)まことにときいたり
    一念慶喜するひとは
    往生かならずさだまりぬ

法蔵菩薩が誓願は「私のいいいいい本願を信じて念仏する者で、往生しない者がいれば私は仏にはならない」とう、御誓いである。それゆえに、弥陀の本願を信心が定まる時に至って、信心を喜ぶ人は、まさに、往生が決定しているのである。

二十五 安楽仏土の依正(えしょう)は
    法蔵願力のなせるなり
    天上天下にたぐいなし
    大心力を帰命せよ

安楽の浄土におられる阿弥陀仏も、その国土も、すべてが法蔵菩薩の誓願のお陰である。その優れた様子は、天上天下に比べられるものがない。このような浄土を完成させられた誓願の力を身に備えておられる阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。



二十六 安楽国土の荘厳(しょうごん)は
    釈迦無礙(しゃかむげ)のみことにて
    とくともつきじとのべたまう
    無称仏(むしょうぶつ)を帰命せよ

安楽浄土の優れている様子は、一切のことを巧みに説かれる釈尊の能力をもってしても言い尽くし難いと言われている。このような言葉に表し難い浄土をつくられた阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

二十七 巳今当(いこんとう)の往生は
    この土の衆生のみならず
    十方仏土よりきたる
    無量無数(むりょうむしゆ)不可計(ふかけ)なり

極楽浄土へ既に往生した者、今往生する者、将来往生するであろう者は、単に、この俗世の者だけではない。あらゆる世界の仏国土から、浄土へ往生するのである。その数は無数無量であって、数えることが出来ないくらいに多い。

二十八 阿弥陀仏の御名をきき
    歓喜讃迎せしむれば
    功徳の宝を具足して
    一念大利無上なり

阿弥陀仏の御名を聞いて、喜び誉め讃えるならば、御名にこめられている功徳の宝を頂くことができる。一声の念仏によって、必ず悟りを開くことができる者となる。このように無上の大利益が得られます。

二十九 たとい大千世界に
    みてらん火をもすぎゆきて
    仏の御名をきくひとは
    ながく不退にかなうなり

たとえ燃えさかる火が、宇宙を覆うようなことがあっても、ものともせずに、通り過ぎて阿弥陀仏の御名を聞くことができた人は、必ず成仏して浄土へゆくことが決まった人である。

三十 神力無極(じんりきむごく)の阿弥陀仏は
   無量の諸仏をほめたまう
   東方恒沙(とうぼうごうじゃ)の仏国より
   無数の菩薩ゆきたまう

神通力を備えて、自由自在な阿弥陀仏を、無数の御仏(みほとけ)たちが誉め讃えておられる。極楽浄土の東方のガンジス河の砂の数ほどもある仏国土から、無数の菩薩たちが、阿弥陀仏を供養するために、浄土へ訪ねられる。



三十一 自余の九方の仏国も
    菩薩の往勤(おうごん)みなおなじ
    釈迦牟尼如来偈をときて
    無量の功徳をほめたまう

東方以外の南・西・北・下・上・東南・西南・西北・東北という九方の仏国土から無数の菩薩が浄土を訪ねて、阿弥陀仏にお会いになった。釈迦牟尼如来は「大無量寿経」のなかで讃歌をつくられて、阿弥陀仏の無量の功徳を誉め讃えられておられる。

三十二 十方の無量菩薩衆
    徳本うえんためにとて
    恭敬(くぎょう)をいたし歌嘆(かたん)す
    みなひと婆伽婆(ばかば)を帰命せよ

極楽浄土を訪れる全宇宙の無数の菩薩たちは、功徳の根本であり、悟りを開くための一番よい行である念仏の行を修めるために、阿弥陀仏を敬い尊び、声にだして誉め讃えられるこのような大いなる功徳を備えた阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

三十三 七宝講堂道場樹(しっぽうこうどうどうじょじゅ)
    方便化身の浄土なり
    十方来生(じっぽうらいしょう)きわもなし
    講堂道場礼すべし

七宝でできた講堂も菩提樹も、衆生に往生の心を起こさせるために仮に現れている方便の浄土である。それゆえに、全宇宙から訪れる者に、かくの如く巧みな手段をつくして衆生を救いたいと考えておられる阿弥陀如来を敬い尊びなさい。

三十四 妙土広大超数限(みょうどこうだいおちょうしゅげん)
    本願荘厳よりおこる
    清浄大摂受(しょうじょうだいしょうじゅ)に
    稽首帰命(けいしゅきみょう)せしむべし

広大無限で精妙なる浄土は、すべての法蔵菩薩の本願の完成の現れである。一切衆生を収めとってくださる阿弥陀仏をひれ伏して敬い尊び、ひたすら頼みとしなさい。

三十五 自利利他円満して
    帰命方便巧荘厳(きみょうほうべんぎょうしょうごん)
    こころもことばもたえたれば
    不可思議尊を帰命せよ

弥陀はみづから成仏されていて、さらに他者成仏をさせる道を備えておられる。他者を成仏させるためにつくられた極楽浄土の優れた様子は、想像することも、言葉で表現することもできない。このような浄土を完成せれた阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。



三十六 神力本願及満足(じんりきほんがんぎゅうまんぞく)
    明了堅固究竟願(みょうりょうけんごくきょうがん)
    慈悲方便不思議なり
    真無量を帰命せよ

弥陀の神通力と法蔵菩薩の本願力は、完全であり、堅固なものである。必ず成就するための誓願である。その誓願は、すべての衆生を救うという慈悲の心より起こされた。このように慈悲を備えておられる阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。

三十七 宝林宝樹微妙音(ほうりんほうじゅみみようおん)
    自然清和(じねんしょうわ)の伎楽(ぎがく)にて
    哀婉雅亮(あいえんがりょう)すぐれたり
    清浄楽(しょうじょうがく)を帰命せよ

宝林宝樹がかなでる霊妙な音は、自然に清らかな音楽となっている。哀れで雅びに冴えわたっている。この音楽を聞く衆生は悟りを開くことができる。このような清浄な音楽を聞かせられる阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

三十八 七宝樹林くににみつ
    光耀(こうよう)たがいにかがやけり
    華果枝葉(けかしよう)またおなじ
    本願功徳聚を帰命せよ

浄土には七種の宝でできた樹林が満ちている。それらは光り輝き、互いに照らしあっている。花も実も枝も葉も同じである。このような功徳だけではなく、あらゆる功徳を集めておられる阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。

三十九 清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは
    いつつの音声(おんじょう)いだしつつ
    宮商和(きゅうしょうわ)して自然(じねん)なり
    清浄勳(しょうじょうくん)して礼(らい)すべし

清らかな風に宝樹がそよぐとき、五つの楽音が流れでる。それらは自然に妙なる和音をかなでる。これらの清浄な音楽をかなでられる阿弥陀仏を、敬い尊びなさい。

四十 一一(いちいち)のはなのなかよりは
   三十六百千億の
   光明てらしてほがらかに
   いたらぬところはさらになし

浄土の池に咲いている蓮の花の一つ一つから、三十六色の無数の光が放たれています。無数の光は、互いに照らしあい透明で、すがしがしく、届かぬ所はないのです。



四十一 一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身もひかりもひとしくて
相好金山(そうごうこんぜん)のごとくなり

一つ一つの蓮の花から、三十六色の無数の光が放たれ、その光の中に仏が身に備えておられる三十二相八十随形好の優れている様子は、黄金の山のようである。

四十二 相好ごとに百千の
ひかりを十方にはなちてぞ
つねに妙法ときひろめ
衆生を仏道にいらしむる

仏の三十二相の一つ一つから、百千の光を宇宙に放っておられる。その光を通して、全ての衆生が救われる念仏の教えを常に説かれて一切の衆生を仏道に導いておられます。

四十三 七宝の宝池いさぎよく
八功徳水(はっくどくしい)みちみてり
無漏の依果不思議なり
功徳蔵を帰命せよ

七種の宝で出来た池は清らかで、八つの功徳をたたえた水を満々とたたえている。煩悩のない浄土の様子は、人間の思慮を超えた不思議に満ちている。このような功徳の全てを備えておられる阿弥陀仏をひたすら頼みとしなさい。

四十四 三塗苦難(さんずくなん)ながくとじ
但有自然快楽音(たんうじねんけらくおん)
このゆえ安楽となづけたり
無極尊を帰命せよ

浄土には地獄・餓鬼・畜生の三界の苦しみも、苦しみという言葉さえもない。宝池の水は自然に快い音をだして法を説く。それゆえに、安楽の浄土となづけられた。この浄土の主人じであられる阿弥陀仏を、ひたすら頼みとしなさい。

四十五 十方三世の無量慧
おなじく一如に乗じてぞ
二智円満道平等(にちえんまんどうびょうどう)
摂化随縁不思議(せっけずいえん)

いつの時代にも世に出でおられる無量の智慧を得られた御仏たちは、不思議であるが、同一の悟りを開いておられる。真実・方便の二つの智を完成し、衆生を同じ仏道に導く。衆生の悟り具合に応じた教えを説いておられます。



四十六 弥陀の浄土に帰しぬれば
すなわち諸仏に帰するなり
一心をもちて一仏を
ほむるは無礙人をほむるなり

阿弥陀仏とその浄土に帰依することは、全ての御仏に帰依することである。他力の信心をいただいて、阿弥陀仏を信じ、感謝して誉め讃えることは、一切衆生を救われる全ての御仏を誉めることである。

四十七 信心観喜慶所聞(しんじんかんぎきょうしょもん)
乃かい一念至心者(ないかいいちねんししんしゃ)
南無不可思議光仏
頭面(ずめん)に礼したてまつれ

信心を得て、必ず往生できると、阿弥陀仏の本願を喜び、たとえ一度でも心から信じた者は、一切衆生を照らして収めとられる南無不可思議光仏を、み足にこうべを頂いて敬い尊びなさい。

四十八 仏慧功徳をほめしめて
十方の有縁にきかしめん
信心すでにえんひとは
つねに仏恩(ぶっとん)報ずべし

一切衆生をお救いくださる阿弥陀仏の智慧と功徳を誉め讃え、縁のある全ての人びとに阿弥陀仏の功徳を聞かせなさい。本願を疑いなく信じ得た者は、常に仏恩に報いるようにと念仏して、他の人びとにも勧めなさい。