羅漢庵

仏教を学ぶ

日々の感想 2016~2017

日々の雑感2014~2016

親鸞年表概略

正法眼蔵随聞記

日本仏教史概略

般若心経

私訳歎異抄

仏陀の生涯

四国八十八箇所巡礼感想

坂東三十三観音参拝の感想制作中

親鸞の生涯

私の人生

人生について

高瀬舟

親鸞の生涯

 親鸞は1173年京都の日野で生まれ、松若丸と名づけられました。
 
父親は藤原氏の流れをくむ日野有範であり、母親は確かな出自はわかっていません。
 
その時代は京都では平氏の天下でした。しかし、平氏も十数年後には源氏によって滅ぼされてしまいました。源氏の天下になったわけです。
 
源氏と平氏の戦いによって比叡山延暦寺や奈良の東大寺・興福寺などが焼きはらわれるという事が起こりました。

東大寺は民衆に尊ばれたお寺ですが、そのような権威も地に落ちてしまいました。
 
権威のない動乱の時代が始まったわけです。加えて天変地異が相続いて起きました。飢饉や疫病のために死者があふれ、

京都の加茂川には死者がうち捨てられ、まさに地獄のようなありさまであったようです。
 
民衆は不安をいだきながら生き残るために必死だったでしょう。
 
このような時代に生まれた親鸞は生きる意味を考えざるを得なかったのではないでしょうか。
 
親鸞は1181年9歳で出家されました。出家の動機はよくわかっていません。これは推測ですが。父親の有範は下級貴族であったので、

このまま親鸞が俗世間で成長しても下級貴族止まりで、出世は見込めないために、出家させて僧侶の世界で出世させたいと思ったようです。
 
親鸞の出家後の名前は範宴と名乗られました。9歳で出家してから20年間、つまり29歳まで比叡山延暦寺で修行に明け暮れた事でしょう。
 
最澄によって開かれた比叡山延暦寺は仏教界の権威の象徴でありました。しかし、

現実には貴族社会の身分制度がそのまま持ち込まれたような所でした。

つまり親鸞のような下級貴族の子弟はどんなに努力しても僧侶の世界でも出世は出来ないようになっていたわけです。
 
比叡山延暦寺は貴族を救うための仏教であって、貴族からお金を貰い、貴族のために加持祈祷をしていました。民衆には無縁な所でした。

僧侶たちも仏教についての学問をするだけで、民衆を救うことは考えていませんでした。
 
僧侶の一部は厳しい修行・戒律を守っているように見えているが、夜になると、人目を忍んで京都の花街に遊ぶ者もいたそうです。

このような僧侶の堕落を親鸞は見ていて矛盾を感じたことでしょう。
 
親鸞は自力修行を20年間続けても煩悩をなくすことが出来なかったわけです。

解決を見いだせないまま親鸞は1201年29歳で比叡山延暦寺を下りられて俗世間に戻られました。

そして京都の烏丸にある聖徳太子が建てられたといわれている六角堂に100日間、籠もられました。

親鸞は六角堂の本尊である如意輪観音に救われたいと思い、祈りました。95日目の早朝に観音の化身である聖徳太子が夢に現れて告げました。

「女性を犯すことがあるならば、わたくし、観音が美しい女性になって、貴方に犯されましょう。また、貴方を守り、

死ぬときには極楽浄土に導きましょう。このことは観音菩薩であるわたくしの誓いである、貴方はこの誓いを世間の人びとにも伝えなさい。」

この夢のお告げは女性を犯すことを許すだけでなく、罪を犯さずには生きることが出来ない人間でも救われることを意味します
 
親鸞は20年にわたって修行してきたが、自分の欲望を抑えることが出来ないという煩悩に悩まされ続けてきたことがわかります。
 
その後親鸞は京都で念仏の教えを説いていた法然を訪れます。法然の教えは「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」というだけです。

親鸞はその教えに救われました。親鸞は法然の教えを聴聞して、自分が求めていた仏の教えが、ここにあったと思ったことでしょう。
 
親鸞は法然の弟子の念仏者として生きていくという確信をいだいて実行したのです。自分の煩悩を抑えることの出来なかった親鸞は、

法然との出会いで煩悩を持つ身のまま、生きてゆく歓びを見いだされた思われます。
 
仏法とは無縁と思われていた民衆、下級貴族、武士が法然と共に念仏を称えて救われる思いをしたことでしょう。

そして念仏は多くの人びとに広まりました。

しかし、念仏を悪用する者もいました。それは何をしても救われるという教えから発生したものです。
 
法然の念仏の教えをこころよく思わない比叡山の僧侶たちは念仏を禁止するように朝廷に訴えたために、法然は7カ条の規制を作って、

弟子たちに署名させ、守る誓いをさせました。親鸞もそれに署名しています。綽空(しゃっくう)という名前でです。
 
1206年12月朝廷の御所に勤めている女房たちが法然の弟子の住連房や安楽房の念仏に加わって一夜を過ごしました。

その事が京都を留守にしていた後鳥羽上皇の耳にはいって怒りをかってしまいました。
 
1207年2月、住連房ら4人が死罪。法然を含み8人が流罪の刑罰がくだされました。法然は土佐の国、親鸞は越後の国へ流罪となりました。

親鸞と法然は死ぬまで二度と会うことはありませんでした。
 
親鸞はこのような処置に怒ったばかりではなく、この刑罰以後、念仏の教えが衰えていくことを歎いています。

35歳のときに親鸞は流罪の地である越後の国府に流されました。この土地で親鸞の人生観は大きく変わりました。

それは次の理由からです。越後の自然の美しさ、それに厳しさ、その土地の人びとの富や権力などとの無縁な生き方。

また生きるためには世間の常識では悪事と思われていることでも、やむ得ずにおこなわれなければならないという生活がありました。

つまり飾り気のない赤裸々の人間の生活があったのです。
 
親鸞は機縁があって妻帯しました。その土地の豪族の娘であったと思われる恵信尼です。そして数名の子供ができました。

僧侶としては禁止されていた肉食妻帯の俗世間の生活者となられたわけです。妻帯して子供をもうけることによって、

人間関係の難しさなどを経験されたことと思われます。
 
親鸞は念仏者として、生活していくのに精一杯の人びとに念仏をどのように伝えていくかで悩まれたことと思われます。
 
俗世間で布教するということで、親鸞みずからも愚禿釈親鸞と称するようになります。 流罪になってから5年後の1211年に親鸞も法然も、

共に赦免になりました。しかし、親鸞は京都には戻らなかったのです。その理由もいろいろの説があるようです。

その一つに師の法然が既に逝去されていたということもあります
 
親鸞は1214年、42歳のときに常陸(現在の茨城県)に移られました。常陸で暮らされた20年間に念仏の教えを人びとに伝えることを専ら行いながら、

関東地方で生きられていたわけです。
 
親鸞は現在の茨城県・千葉県・栃木県で、布教を精力的に行われました。その結果、多数の念仏者ができました。

布教しながら、民衆の不平不満を辛抱つよく聞き、念仏の道理をかみくだいて教えていかれたことだろうと思われます。
 
1214年、越後から関東に移っていた途中、現在の群馬県の佐貫で親鸞は浄土三部経を千回読誦しています。なぜかというと、

関東地方では飢饉があり、人びとは無残にも餓死する者が多くでたわけです。餓死する人を少しでも減らすために

浄土三部経を千回読誦することを思いたたれたわけです。しかし、民衆をあわれみ、いとおしいと思っても、

思うがごとく助けることが出来ないとさとって、千回読誦を止められたということです。つまり千回称えることの無意味さがわかったのでしょう。

この体験によって親鸞は南無阿弥陀仏という称名念仏を数回でも称えれば救われるとう考えに至ったのでしょう。以後この考えが親鸞

の教えの中心となりました。

親鸞は越後と関東地方で生活するなかで、民衆は生きていくために他人を押しのけなければ生き残れない人びとのなかに、

本来の人間の本性を見つけられと思います。親鸞は民衆がそのエゴというものを自覚することの大切さに気づかれたことでしょう。
 
他人を押しのけなければ生きられないということを自覚して生きることと無自覚で生きることは雲泥の差があることを親鸞ははっきりと、

わかっておられたと思います。ただ鬼畜のように、他人を犠牲にして生きることは弥陀の本願にかなわないのである。

他人を犠牲にしなければ生きていけないことを自覚して行動することこそ弥陀の本願にかなうのであると親鸞は気づかれたことと思います。
 
親鸞はエゴを自覚するためには念仏することが絶対に必要だと思われたから、民衆に念仏を布教されたのでしょう。

エゴを自覚して悪事を行ってでも生き残る人たちのことを悪人と親鸞は言われたのでしょう。

歎異抄で語られている悪人正機(善人であるとうぬぼれている人より悪人であると自覚している人が弥陀に救われる)という思想が、

生まれたと思います。
 
親鸞は関東地方での布教によって多数の門弟ができました。それらの門弟たちは念仏の教えを民衆に布教することを熱心に行いました。

しかし、有力な門弟なかには自分が布教して、門弟になった人びとを弟子として見なすようになって、

師弟関係となるようなことが各地の有力な門弟のなかにできました。有力な門弟が師となって、弟子の奪い合いや、派閥のようなものもできました。

念仏の解釈の違いも生じました。その結果、有力な門弟同士の対立もうまれました。
 
親鸞は念仏を伝えて共に念仏を称えることになった人びとを弟子と呼ぶことを嫌いました。ただ弥陀の本願の念仏を伝えただけであるのに、

自分が念仏を発明して教えているわけではないと自覚されていたのだと思われます。

歎異抄でも「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と語られています。
 
師弟関係が悪い方向にいくと、師と弟子という上下関係ができてしまいます。師が弟子に一方的に命令や指導をすることになってしまいます。

弟子は師に言いたいことも言えなくなります。共に念仏を信じる者として平等な関係がなくなります。このような上下関係になることを、

親鸞はたいへん嫌われました。常に親鸞は共に念仏を称える人たちを御同朋・御同行と言われています。

平等に何でも言える関係を最も大切にされていたことがわかります。

親鸞は60歳の頃に突然、常陸から京都に戻られました。その理由はいろいろの説があるようですが、

有力な門弟同士の争いや鎌倉の政権から念仏者に対しての弾圧が強くなったことが考えられます。
 
親鸞が帰京されたことによって関東地方の門弟たちに動揺が起きました。それを防ぐために親鸞は再三、

書簡を送って念仏の正しいあり方を示されました。

また、親鸞の長男である善鸞を関東に派遣して、動揺を鎮めようともされました。しかし、善鸞は自分のもとに関東の教団を統一しようとして、

親鸞から特別な教えを聞いたというような偽りを言ったりしました。また、鎌倉の権力者に取り入り、その権力を布教のために利用しようとしました。

そのような善鸞の行為を知った親鸞は善鸞を勘当しました。親子の縁を切ることは親鸞としては悲しかったと思います。

しかし、念仏の教義についての偽りに対しては子である善鸞をも許すことができなかったと思われます。
 
関東地方の民衆は自分自身の生き方に自信を持ち得なかったのですが、親鸞の念仏の教えを受け入れることで、自信を取り戻すことができました。

善と考えられた生き方だけでなく、悪をも恐れることもない生き甲斐のある一本の道を生きることができるようになりました。

しかし、一部の門弟のなかには、どんな悪事をしても救われるというような曲解した解釈をして、悪事を実行する者もいました。

そのために権力者から念仏者に対して弾圧を受けるようなことがありました。
 
親鸞の教えは古い仏教の教えと正反対の教えであるために、解釈の仕方によっては誤解されやすかったのでしょう。
 
親鸞が帰京されてからの生活は安定していたとは言いがたくて、住居なども縁を頼って転々とされたようです。

また寺をもち、住職になられることもありませんでした。
 
親鸞は帰京されてからは専ら著作をされています。次のようなものを書かれています。「教行信抄」です。内容は、お経からの引用が多くて、

やや読みずらい所もありますが、その主意は、すべての人びとは共に人間として平等であって、自信を持って、

この生き難い人の世を生きることができるということです。

そのほかの著作は「浄土和讃」、「高僧和讃」、「正像末和讃」、「尊号真仏銘文」、「一念多念文意」、「愚禿抄」などです。
 
念仏の教えを讃歌である和讃という形で人びとに教えたり、多くの書簡を送り、わかりやすく語りかけておられます。
 
親鸞は法然によって念仏の教えに導かれました。親鸞は、その念仏の教えを人びとに伝えられて多くの門弟を生みだされた人生であったのです。
 
親鸞は1262年12月28日に90歳で逝去されました。それから約800年を経た今日までには親鸞の教えを信じる多数の念仏者を生みだし、

それらの人びとの生きる拠り所となっています。私もその中の一人であると確信しています。

watanabe1205@live.jp

感想は右記へ

日々の感想2018

日々の感想2019

日々の感想202

山椒大夫

末灯抄

正像末和讃

讃阿弥陀仏偈和讃

高僧和讃

浄土和讃
真理のことば