正像末和讃                                    トップページへ


正像末和讃

弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり


念仏する者を必ず往生させるという弥陀の本願を信じなさい。信じる人は誰でも収め取って決して捨てられない阿弥陀仏の働きを身に受けて、
必ず無上の悟りを開かして貰える。

正像末浄土和讃


一 釈迦如来かくれまして
二千余年になりたまう
正像の二時におわりにき
如来の遺弟悲泣せよ


釈尊がなくなられて、既に二千年以上が過ぎた。滅午五百年は、悟りを開く者がいた正法の世であった。その後の千年は悟れずとも修行する者がいた像法の世であった。
今は修行する者もいない末法の世である。仏弟子たちよ、悲泣しなさい。

二 末法五濁の有情は
行証がなわぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく
龍宮にいりたまいにき


末法の世の、五つの濁りに汚された悪世界に住む人びとは、仏道修行も悟りも開くことができない。そんな時代であるから、
釈尊の説きおかれた教法は全て龍王の宮殿に入って隠れてしまった。

三 正像末の三時には
弥陀の本願ひろまれり
像季末法のこの世には
諸善にいりたまう


正法・像法・末法の三つの時代を通じて、阿弥陀の本願の教えは広まり、多くの人びとが帰依した。しかも、像法の終わりから末法にかけて
、浄土の教えを除く諸善の教えは全て龍宮に隠れてしまった。

四 大集経(だいじつきょう)にときたまう
この世は第五の五百年
闘諍堅固なるゆえに
白法隠滞(びゃくほうおんたい)したまえり


「大集経」の説に照らしてみれば、今の世は第五番目の五百年、即ち釈迦滅後二千五百年の世である。この時代を「大集経」には、
自分の主張を是として争いばかりするために、正しい教法は全て隠れてしまうと説かれている。

五 数万歳の有情も
果報ようやくおとろえて
二万歳にいたりては
五濁悪世の名をえたり

人間は初め、数万年の寿命を持っていた。悪業によって果報が次第に衰え、二万年の寿命を持つ時代になった時以来から、
今の百年ほどの寿命を持つ時代に到るまで、全てを五濁悪世と名づけられた。

六 劫濁のときうつるには
有情ようやく身小なり
五濁悪邪まさるゆえ
毒蛇悪龍のごとくなり


現代の濁りが増えてゆけば、人間の身体も小さくなってゆく。邪悪な行為も増えて人間は毒蛇や悪龍のようになってゆく。

七 無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峯岳山にことならず


人間の持っている無明の煩悩はおびただしい。塵の数ほどにあって、身に満ち満ちている。思いどおりであれば、愛欲の心が起き、なければ怒りの心が起こる。
煩悩の起伏の激しさは、高い山の連なりのようである。

八 有情の邪見熾盛にて
叢林棘刺(そうりんこくし)のごとくなり
念仏の信者を疑謗して
破壊瞋毒(はえしんどく)さかりなり


人間のよこしまな見解は、激しく盛んである。勢いは繁茂する草木にも、棘や茨にも似ている。
邪見によって念仏の信者を疑い謗り、妨害し、怒りをなげつけることもはなはだしい。

九 命濁中夭刹那にして
依正二報滅亡し
背正帰邪まさるゆえ
横(おう)にあたをぞおこしける


末法の世の人の寿命は短かく、昔に比べれば刹那に等しい。自身も環境も廃滅してしまい、正義にそむき邪義に服する者が多くなる。
ひとたびは福を招いても、ついには身の仇となる。

十 末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離のその期はなかるべし


末法の世の、争いばかりが激しい第五の五百年に住む人びとは、阿弥陀仏の一切衆生を救って頂く慈悲の本願を信じなければ、
この迷いの悪世界を捨て離れる機会がない。


十一 九十五種世をけがす
唯仏一道きよくます
菩提に出到してのみぞ
火宅の利益は自然なる


末法の世には、九十五種のよこしまな教えが世を汚す。浄土の教えだけが、清く正しい。我らは浄土に往生して、他人を教化する身になってのみ、
この世の人びとを救うことができる。

十二 五濁の時機にいたりてば
道俗ともにあらそいて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅さかりなり


五つの濁りに汚れた時代に到れば、僧侶も俗人も、自分の教えだけが正しいと主張して争う。念仏の教えを信じる人を見ては、疑い謗れ、
破滅させることも盛んになる。

十三 菩提をうまじきひとはみな
専修念仏にあたをなす
頓教堙滅のしるしには
生死の大海きわもなし


悟りを開く縁を持たない人びとは、全ての本願の念仏者に仇を為す。彼等はいかなる者も速やかに悟りを開く念仏の教えを滅ぼそうとした結果、
迷いの世界で永遠に苦しむ。

十四 正法の時機とおもえども
底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし
発菩提心いかがせん


今の世が修行して悟りを開くことができる正法の時代と思ってみても、現に我らは煩悩に苦しむ最低の凡人愚人である。清浄真実の心は無く、
悟りを求めて修行を続けようとする菩提心起こすこともできない。

十五 自力聖道の菩提心
こころもことばおもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき


悟りを求めて、難行苦行を厭わず、自分の心を励まし続けなければならない自力聖道の菩提心は言いようのないほど尊い。
しかし迷いの世を常に流転している凡人愚人に、どうしてこの心が発起できようか。

十六 三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり


我らがこれまで行くたびも生まれ変わり、無数の御仏が世に出られたときに出会い、その度に大菩提心を起こして、修行に励んできた。
しかし、自力の力ではついに悟りを開くことができず、今に到るまで迷い続けている。


十七 像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり


悟りを開く者のいない像法・末法の時代となったとき、釈尊が遺された、この世で悟りを開くための教えは廃り滅びた。
ただ浄土へ往生して悟りを開かせようとする弥陀の本願の教えだけが広まり、念仏往生の仏道が盛んになった。

十八 超世無上に摂取し
選択五劫思惟して
光明寿命の誓願を
大悲の本としたまえり


法蔵菩薩は五劫の間、思惟され、すべての仏国土の長所を全て収め取った誓願を建てられた。その中で、
宇宙を照らす光と過去現在未来に渡る寿命を備えている本願を、一切衆生を救う慈悲の中心とされた。

十九 浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなわち願作仏心を
度衆生心となづけたり


浄土の教えでいう大菩提心とは、浄土へ往生して悟りを開き、仏となろうとする心である。この願作仏心が、そのまま、一切衆生を救おうとする心である。

二十 度衆生心ということは
弥陀智願の廻向なり
廻向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり


一切衆生を仏とならせようとする度衆生心も、我らを浄土へ往生させようとする阿弥陀仏の智慧の本願によって与えられる。
それ故、本願が与えてくれる信心を得れば、自身の悟りと、他者を救う働きの、両方を備えた真の仏となる。

二十一 如来の廻向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の廻向をすてはてて
利益有情はきわもなし


我ら自身の成仏も他人を救う働きも、共に兼ね備えた弥陀の本願に帰依して、浄土へ往生して仏になろうとする心を持つ人は、自分で善行を修めて、
その功徳をもって、他人を救おうとする自力の廻向に寄らなくても、他の人びとを救うことができる。

二十二 弥陀の智願海水に
他力の信水いりぬれば
真実報土のならいにて
煩悩菩提一味なり


一切衆生を平等に救われる本願の海に、他力を信じて帰入すれば、阿弥陀仏と同じ悟りを開く浄土の論理である、我らの煩悩も弥陀の悟りと同じものになる。
さまざまな川の水が海に流入すれば同じ味となる如くである。


二十三 如来二種の廻向を
ふかく信ずるひとはみな
等正覚にいたるゆえ
憶念の心はたえぬなり


阿弥陀仏は我らを浄土へ往生させて、悟りを開いてくださる(往相廻向)、再びこの世に還してくださる(還相廻向)。この二種の廻向を深く信じる人は、
必ず成仏する故に、阿弥陀仏を思う心が絶えない。

二十四 弥陀智願の廻向の
信楽まことにうるひとは
摂取不捨の利益ゆえ
等正覚にいたるなり


阿弥陀仏の大いなる智慧に満ちた本願を廻向されて、まことの信心を得た人は、弥陀の慈悲に収め取られて、決して捨てられない。必ず仏となる身となる。

二十五 五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし


成仏を約束されている弥勒菩薩も、自力の行者である故に、実現されるのは五十六億七千万年の後である。他力の本願の真実信心を得た人は、
この世の命を終えて浄土に往生すれば、ただちに悟りを開いて仏となれる。

二十六 念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなわち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし


阿弥陀仏の念仏する者を必ず浄土に往生させるという本願を疑いなく信じて、仏となる身と定まった人は、弥勒菩薩と同じ位を得ている。必ず悟りを開くことができる。

二十七 真実心うるゆえに
すなわち定聚にいりぬれば
補処の弥勒とおなじくて
無上覚をさとるなり


真実信心を得て、浄土への往生を約束された人びとの中に入れば、菩薩の最高の位におられて、次の生には必ず成仏することのできる弥勒菩薩と等しい。
命終わるときに、必ず悟りを開いて、仏となる。

二十八 像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまう


悟りが不可能であると知りつつ自力の修行に励んでいる像法の世にあっても、智慧ある人びとは、今の世にふさわしい仏教であるとして、
本願他力の念仏に帰依されていた。

二十九 弥陀の尊号となえつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいありお


南無阿弥陀仏と称える私を救ってくださる弥陀の本願を疑いなく信じている人は、その有り難さを常に思い、仏恩に報じようとする心が絶えることがない。

三十 五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にしみてり


五つの濁りに汚れた悪世界に住む人びとも、阿弥陀仏が特別に選ばれた念仏往生の本願を疑いなく信じるならば、
推し量ることも説明することもできない不可思議な名号に込められた功徳を頂いて、念仏する身に満ちる。


三十一 無礙光仏のみことには
未来の有情利せんとして
大勢至菩薩に
智慧の念仏さずけしむ


無礙光仏の御言葉によれば、未来の全ての衆生を救われて、仏として頂くために、大勢至菩薩にあらゆる悪行も滅し尽くす働きのある智慧の念仏を授けられた。
勢至菩薩はその事を、「首楞厳経」で述べられておられる。

三十二 濁世の衆生をあわれみて
勢至念仏をすすめしむ
信心のひとを摂取して
浄土に帰入せしめけり


濁世に住む全ての人びとを悲しみ憐れんで、勢至菩薩は念仏を勧められる。難物者を収め取り護り、他の教えに心を向けず、浄土の教えに帰依させた。

三十三 釈迦弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ


釈迦と阿弥陀仏の慈悲によって、私たちは浄土へ往生して仏となろうとする願作仏心を得た。このように弥陀・釈迦の知恵の働きに身をまかせれば、
仏恩を報謝する心が絶えない者となることができる。

三十四 智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかせりば
いかでか涅槃をさとらまし


阿弥陀仏の智慧の全てが込められた念仏を頂くことは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に誓われた本願の働きによる。その智慧の念仏を信じて、
往生させてもらうのでなければ、どうして悟りを開けようか。

三十五 無明長夜の燈炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ


「南無阿弥陀仏」の念仏は、無知の闇を照らす灯である。闇をはらす智慧がないことを、もはや悲しむことはない。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、迷いに世を渡す船や筏である。罪重く障りの多い迷いの身であることを、もはや嘆くことはない。

三十六 願力無窮にましませば
罪障深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず


阿弥陀仏の本願力の働きには限界がない。いかなる重罪人も、必ず往生させられる。弥陀の智慧には際限がない。
思いのままに振る舞う悪人をも、決して見捨てられることはない。

三十七 如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり


阿弥陀仏が本願を起こされた本意を尋ねれば、苦しみ、悩む一切衆生を救おうとされる御心である。そのために、往生の原因のないものに対して、
必ず往生できる原因である念仏を与えられて、慈悲の心を完成されたのです。

三十八 真実信心の称名は
弥陀廻向の法なれば
不廻向となづけてぞ
自力の称念きらわるる


弥陀の本願を信じて、称える念仏は、この御仏が我らに与えてくださったものである。それ故に、念仏は我ら自身の行為ではない(不廻向)と言われる。
称えることによって、我らの善行であるとされる自力の心は斥けられる。

三十九 弥陀誓願の広海に
凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなわちに
大悲心とぞ転ずなり


阿弥陀仏の全ての智慧である本願の海に帰依すれば、愚かな凡夫の偽りの善も悪心悪行も、たちまち阿弥陀仏と同じ大慈悲心に変えることができる。

四十 造悪このむわが弟子の
邪見放逸さかりにて
末世にわが法破すべしと
蓮華面経にときたまう


末法の世は、私の弟子であろうと、悪を好み、よこしまな考えが横行するようになる。そして、私が説いた教えを破り捨てるようになると、
釈尊が自ら「蓮華面経」に説かれている。

四十一 念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に墜在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまう


念仏の教えを謗る者は最も恐ろしい阿鼻地獄に墜ちて、八万劫という長い時間、大苦悩を絶え間なく受けるであると経典に説かれている。

四十二 真実報土の正因を
二尊のみことにたまわりて
正定聚に住すれば
かならず滅度をさとるになり


阿弥陀仏のおられる真実報土へ往生するための正しい原因を、弥陀・釈迦二尊の巧みな導きの御言葉によって頂くことができた。
それで必ず往生できる正定聚の位に入れば、必ず悟りを開くことができる。

四十三 十方無量の諸仏の
証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の
かなわぬほどしりぬべし


宇宙の無数の御仏が、念仏をすれば必ず往生できると、誠意を持って証明しておられる。さらに念仏する者を護ると仰せられた。
自力の菩提心を起こしても、悟りを開くことができないと知るべきである。

四十四 真実信心うることは
末法濁世にまれなりと
恒沙の諸仏の証誠に
えがたきほどをあらわせり


弥陀の本願の真実信心を得ることは、末法濁世の人びとには希である。それ故にこそ、ガンジス河の砂の数ほどの無数の御仏が、念仏で必ず往生できると、
誠意を持って証明しておられる。

四十五 往相還相の廻向に
もあわぬ身となりにせば
流転輪廻もきわもなし
苦海の沈淪いかがせん


阿弥陀仏の念仏する者を往生させる往相廻向の働きと、浄土からこの世に還って人びとを教化するという還相廻向の働きに出会うことがなければ、
私たちは永劫に迷いの世界を輪廻し、苦しみ続けなければならなかったであろう。

四十六 仏智不思議を信じれば
正定聚にこそ住しけれ
化生のひとは智慧すぐれ
無上覚をぞさとりけり


阿弥陀仏の、いかなる悪人であろうとも往生させるという智慧の不思議さを疑いなく信じれば、必ず往生できると約束された正定聚の位に入る。
本願によって往生する化生の人は、弥陀の優れた智慧を得て、悟りを開くことができる。

四十七 不思議の仏智を信ずるを
報土の国としたまえり
信心の正因うることは
かたきがなかになおかた


いかなる悪人であろうとも往生されられる、阿弥陀仏の智慧の不思議さを疑いなく信じることを、御仏のおられる報土へ往生する原因とされた。
しかし、往生の正因である信心を得ることは、難中の難事である。

四十八 無始流転の苦をすてて
無上涅槃を期すこと
如来二種の廻向の
恩徳まことに謝しがたし


我らは今、無始より生死流転の苦を捨てて、無上の悟りを期待できる身となった。阿弥陀仏の往相還相二種の廻向の恩徳は、まことに感謝のしようがない。

四十九 報土の信者はおおからず
化土の行者はかじおおし
自力の菩提かなわねば
久遠劫より流転せり


他力の信心を得て、阿弥陀仏のおられる報土へ往生する者は少ない。自力の心を捨てきれず、弥陀の説法も聞けなくて、化土へ往生するものは多い。
自力は捨てがたく、しかし自力では悟れない故に、我らは迷いに世界を流転し続けてきた。

五十 阿弥陀仏の廻向の
恩徳広大不思議にて
往相廻向の利益には
還相廻向に廻入せり


南無阿弥陀仏という名号を我らに与えてくださった弥陀の恩徳は広大で不思議である。往相廻向の働きで、浄土へ往生することができる。
次には還相廻向の働きで、この世に再び還ってきて、人びとを教化することができる。


五十一 往相廻向の大慈より
還相廻向の大悲をう
如来の廻向なかりせば
浄土の菩提はいかがせん


我らは阿弥陀仏の往相還相の大慈悲心によって、浄土ヘ往生して悟りを開き、還相廻向の大悲心によって、この世へ還って、衆生を教化する者となる。
このように弥陀の廻向の働きがなければ、自身の救いも他者を救う働きも完成できない。

五十二 弥陀観音大勢至
大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ
有情をよぼうてたまう


阿弥陀仏・観音菩薩・大勢至菩薩は釈尊・善導和尚・聖徳太子・法然上人などに姿を変えて、一切衆生を救う大願の船に乗り、生じる転の海に浮かんで、
溺れる人たちに呼びかけられ、迎えられ救われた。

五十三 弥陀の大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなうべし


阿弥陀仏が大慈悲心を持って起こされた本願を疑いなく深く信じる人は、寝ても覚めても隔てなく南無阿弥陀仏と称えなさい。

五十四 聖道門のひとはみな
自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば
義なきを義とする信知せり


聖道門の人びとは、己自身の知識や能力を尽くして真理の法を知ろうと努力する。しかし、そのような聖道門の人であっても、他力の不思議に帰依すれば、
弥陀の本願は人の思いや考えを超えていて、ただ信じることを本義とすることが大事であると知ることになる。

五十五 釈迦の教法ましませど
修すべき有情のなきゆえに
さとりうるもの末法に
一人もおらじとときたまう


釈尊はこの世で悟りを開くための教えを、数多く説かれた。しかし、末法の世には、そのような教えに従って修行する者が一人もいなくなると、釈尊は説かれた。

五十六 三朝浄土の大師等
哀愍摂受したまいて
真実信心すすめしむ
定聚のくらいにいれしめよ


インド・中国・日本に現れて、浄土の教えを説かれた大師たちは、我らを哀れみ護ってくださった。迷いの世界を捨て、離れるための真実信心を勧められた、
必ず往生できる者の数にはいらせってくださった。

五十七 他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友ぞと


他力の信心を得て、阿弥陀仏を敬い、仏となる身となったことを、この上なく喜ぶ人を釈尊は、私の善き親しい友であると誉め讃えられた。

五十八 如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし


我らを救ってくださる阿弥陀仏の大いなる慈悲の恩徳には、我が身を粉にしても報謝しなさい。我らに阿弥陀仏の教えて説いて、
救い導いてくださった大勢の師の恩徳に対しても、我が身をくだいても報謝しなさい。


愚禿述懐

一 不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり


阿弥陀仏の諸々の智慧を疑って善悪の果報を信じて、自分で称える念仏を往生のための善行と思うことは阿弥陀仏の仏智を了解していない証拠である。
このような自力の念仏者は弥陀の説法を聞くことができない辺地に往生することになる。

二 仏智の不思議をうたがいて
自力の称念このむゆえ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし


阿弥陀仏の智慧が我らの考えや思っていることを超えていることを知らなくて、念仏を自分の善行と思って称えるような者は、弥陀に会えない辺地懈慢の浄土に生まれて、
仏恩を報謝する心を生じなくなる。


三 罪福信じる行者は
仏智の不思議をうたがいて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる


善悪の因果を信じて念仏を自分の善行と思って称える者は、悪人でもそのままに往生させられる仏智の不思議さを疑っている。
それ故に、本願を疑う者が往生する疑城胎宮にとめおかれて、弥陀にも説法にも、浄土の人びとにも会えない。

四 仏智疑惑のつみにより
懈慢辺地にとまるなり
疑惑のつみのふかきゆえ
年歳劫数をふるととく


阿弥陀仏の智慧を疑った罪によって、弥陀のおられる真実報土から遥かに離れた懈慢辺地に留め置かれる。
疑いの罪は深く重く、長い間、この化土で虚しく過ごさなければならない。

五 転輪王の王子の
皇につみをうるゆえに
金鎖をもちてつなぎつつ
牢獄にいるがごとくなり


自力の念仏が疑城胎宮の浄土に留め置かれるのは、転輪皇の王子が父に対して罪を働き、金鎖につながれて牢獄に入れられるに等しい。
その牢獄は麗しく造られている。しかし、誠の自由も喜びもない。

六 自力称名のひとはみな
如来の本願信ぜねば
うたがうつみのふかきゆえ
七宝の獄にぞいましむる


念仏を自分の善行と思って称える人は、阿弥陀仏の悪人でもそのまま救われる平等の本願を信じていない。疑いの罪は深く、転輪皇の王子のように、
七つの宝石で造られた牢獄にいれられる。

七 信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし


阿弥陀仏は、第十九、第二十の願を設けて、善行の人や自力の人もすくい取ろうと誓われている。本願を疑い、自力で往生を目指す人も、
この様な大悲の仏恩を知って、他力の信心の人と同様に称名念仏に励みなさい。

八 自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがえば
自業自得の道理にて
七宝の獄にいりにけり


他力念仏の往生を信じないで、諸々の善行を修め、その功徳でもって往生しようとする自力諸善の人びとは、仏智を疑う罪がある。自業自得の道理によって、
七宝の獄のような疑城胎宮の浄土に留め置かれる。

九 仏智不思議をうたがいて
善本徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈悲心はえざりけり


阿弥陀仏は善なき者をも浄土へ往生させるために、あらゆる善と徳を集めた名号を与えられている。この様な仏智の不思議を疑って、
念仏を自分の功徳のように思うものは、辺地懈慢にしか往生できなくて、弥陀の大慈悲にあずかれない。

十 本願疑惑の行者には
含花未出にひともあり
或生辺地ときらいつつ
或堕宮胎とすてらるる


阿弥陀仏の本願を疑う者について、さまざまな経典に説かれている。ある経典には、「開かない蓮華の中に閉じ込められる」と説かれ、
また「辺地懈慢にしか往生できない」と嫌われ、また「疑城胎宮に墜ちる」と説かれている。


十一 如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなおもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり


阿弥陀仏の諸々の智慧を疑い、本願を信じることの出来ないとしても、善悪の果報を信じて、弥陀の万善のこもる念仏を称えて往生しようと励むことは、
他の善行や修行をすることよりも優れている。

十二 仏智を疑惑するゆえに
胎生のものは智慧もなし
胎宮にかならずうまるるを
牢獄にいるとたとえなり


阿弥陀仏の智慧を疑ったために疑城胎宮に往生した者は、弥陀の説法を聞かれず、御仏の智慧が得られない。
無知のそのありさまを、蓮華のつぼみに等しい牢獄にはいることに喩えられる。

十三 七宝の宮殿にうまれては
五百歳のとしをへて
三宝を見聞せざるゆえ
有情利益はさらになし


七つの宝で造られた疑城胎宮に往生した者は五百年間、阿弥陀仏にも説法にも、浄土の人びとにも会えない。
それ故に、この世に還って、人びとを教化する還相廻向の働きも出来ない。

十四 辺地七宝の宮殿に
五百歳までいでずして
みずから過咎(かく)をなさしめて
もろもろの厄をうくるなり


念仏を阿弥陀仏に捧げる自分の善行と思っているものは、浄土の辺地にある七宝の宮殿に五百年間、閉じ込められる。
自分の罪のゆえに、阿弥陀仏に会えず、法も聞けないという悲しみを受ける。

十五 罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆえに
方便・化土にとまるなり


善悪の果報を深く信じて、念仏を自分の善行の根本と思って、称える人は善人であっても弥陀の本願を疑っている。
それ故に、自力を戒めるために、仮の浄土に留め置かれる。

十六 弥陀の本願信ぜねば
疑惑を帯してうまれつつ
はなはすなわちひらけねば
胎に処するにたとえなり


念仏を自分の善行と思っているものは弥陀の本願を信じていない。疑いを抱いて往生する故に、蓮華の花は開かない。
蕾に五百年間閉じ込められる有様を、母の胎内にいるようであると、喩えられる。

十七 ときに慈氏菩提の
世尊にもうしたいけれ
何因何縁いかなけば
胎生・化生となづけたる


疑城胎宮に往生する者がいると、釈尊が説かれたとき、慈氏(弥勒)菩薩が尋ねられた。
どのような理由があって、浄土往生に、疑城胎宮への往生(胎生)と、真実報土への往生(化生)と名づけられる区別があるのかと。

十八 如来慈氏にのたまわく
疑惑の心をもちながら
善本修するをたのみにて
胎生辺地にとどまれり


釈尊は慈氏菩薩に語られた。弥陀の本願を疑いながら、あらゆる善が集め収められている念仏を自分の功徳のように思い、
その功徳で往生しようと頼みとするために、その人は胎生にさせられて、辺地に留め置かれるであろう。

十九 仏智疑惑のつみゆえに
五百歳まで牢獄に
かたくいましめおわします
これを胎生とときたまう


阿弥陀仏の智慧を疑う罪のために、往生しても五百年間、牢獄のような疑城胎宮にかたく閉じ込められる。
この様な往生を胎生の往生というのであると、釈尊は説かれた。

二十 仏智不思議をうたがいて
罪福信ずる有情は
宮殿にかならずうまるれば
胎生のものとときたまう


阿弥陀仏の、いかなる悪人も、そのままで往生させられる智慧の不思議さを疑って、善悪の果報を信じ、念仏を自分の善行と思って、
その功徳でもって往生しようとする人は、疑城胎宮にしか生まれない。このような往生を胎生と説かれた。


二十一 自力の心をむねとして
不思議の仏智をたのまねば
胎宮にうまれて五百歳
三宝の慈悲にはなれたり


我らの思議を超えた阿弥陀仏の智慧に帰依せずに、自分が修めた功徳でもって往生しようと思っているものは、疑城胎宮に往生してしまう。
阿弥陀仏を敬って、説法を聞いて浄土の人びとに会うという慈悲の働きから五百年間は隔たってしまう。

二十二 仏智の不思議を疑惑して
罪福信じ善本を
修して浄土をねがうをば
胎生というとときたまう


阿弥陀仏は、いかなる功徳も積めない者も、そのまま浄土へ収め取ってくださる。この様な智慧の不思議を疑って、善悪の果報を信じて、
念仏を自分の善根の根本と思って、その功徳でもって往生を願う者は胎生に生まれると説かれた。

二十三 仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし


阿弥陀仏の平等の慈悲を疑う罪は深い。この罪の深さを知るならば、此まで自分の力を信じていたことを悔いて、この悔やむ心を根本にして、
阿弥陀仏の智慧の不思議を信じて、唯一の頼みとしなさい。


皇太子聖徳奉讃

一 仏智不思議の誓願を
聖徳皇のめぐみにて
正定聚に帰入して
補処の弥勒のごとくなり


人間の了解の及ばない阿弥陀仏の智慧が成就された本願を我らは聖徳太子の恵みによって知ることが出来た。我らは必ず浄土へ往生できる者となった。
そして弥勒菩薩と等しい位いとなることが出来た。

二 救世観音大菩薩
聖徳皇に示現して
多多のごとくすてずして
阿摩のごとくにそいたまう


救世観音大菩薩は聖徳太子に姿を変えてこの世に現れになった。父親のごとく全ての人びとを見捨てられなく救われる。母親のように全ての人びとに付き添い、護られた。

三 無始よりこのかたこの世まで
聖徳皇のあわれみに
多多のごとくにそいたまい
阿摩のごとくにおわします


聖徳太子に姿を変えられて現れた観世音菩薩は、一切の衆生を憐れんで、永遠の昔から今の世に到るまで、父親のように我らのそばに寄り添い離れず、
母親のように我らを護ってくださっている。

四 聖徳皇のあわれみて
仏智不思議の誓願に
すすめいれしめたまいてぞ
住正定聚の身となれる


聖徳太子が一切衆生を憐れんで、不可思議な智慧によって成就された弥陀の本願を、我らに勧めて、帰依させてくださった。そのお蔭で我らは浄土へ往生して、
成仏が約束されることになった。

五 他力の信をえんひとは
仏恩報ぜんためにとて
如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし


他力の信心を得た人は、阿弥陀仏の恩徳に報いるために、念仏者を往生させる、往相廻向の働きと、浄土から還って衆生を救われる還相廻向の働きを、
平等に全ての衆生に勧めなさい。

六 大慈救世聖徳皇
父のごとくにおわします
大悲救世観世音
母のごとくにおわします


慈悲の心ある救世聖徳皇は父親のように、我らが帰依する正しい道を教え示された。慈悲の心ある救世観音菩薩は母親のように、常に我らを護っておられる。

七 久遠劫よりこの世まで
あわれみましますするしには
仏智不思議につけしめて
善悪浄穢もなかりける


阿弥陀仏が永遠の過去から今の世に到るまで、一切衆生を憐れんでくださっている証拠は、御仏の本願の教えに帰依すれば、善悪や清い汚いの区別なく、
全ての者は平等に救われることである。

八 和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉讃不退ならしめよ


日本で初めて仏法を教えられた聖徳太子の大きな恩徳は、いくら感謝してもしきれない。太子が勧められた阿弥陀に心から帰依して、
その恩徳を讃えることを怠りなく行いなさい。

九 上宮皇子方便し
和国の有情をあわれみて
如来の悲願を弘誓せり
慶喜奉讃せしむべし


観音菩薩は、人びとを教え導く手段として、聖徳太子に姿を変えて、この世に現れになった。そして日本の人びとを憐れんで、弥陀の本願を平等に、広く教え説かれた。
その事を我らは喜び、誉め讃えなさい。

十 多生曠劫この世まで
あわれみかぶれるこの身なり
一心帰命たえずして
奉讃ひまなくこのむべし


我らは久遠の昔から、今の世に到るまで、数多くの生死をくり返してきた。その間、観世音菩薩の慈悲に護られてきた。そして阿弥陀仏に心から帰依することが出来た。
そのような観世音菩薩の恩徳を常に誉め讃えなさい。

十一 聖徳皇のおあわれみに
護持養育たえずして
如来二種の廻向に
すすめいれしめおわします


我らは聖徳太子の憐れみによって護られて、阿弥陀仏を信じるように育てられた。今、聖徳太子のそのような働きによって、
御仏の往相・還相の二つの廻向の救いにはいることができた。


愚禿悲歎述懐

一 浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし


私、親鸞は浄土真実の教えである本願に帰依しても、私には真実の心がないことを知った。私は嘘偽りに満ちた不真実の者である。
宝蔵菩薩が浄土を造るために誓われた、清浄心のかけらもない。

二 外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おおきゆえ
奸詐ももはし身にみてり


我らは、外見は賢者・善人・精励者のように見せかけている。内実は貪欲や怒りの心や邪悪と偽りに満ちている。また、他人を騙して、得をしようという心に満ちている。

三 悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる


我らは、、自分自身に本来具わっている悪性を捨てがたい。心は蛇蝎のように悪辣である。善行を修めようと志しても、その思いに毒が混ざっている。
それ故に虚仮の修行と名づけられた。

四 無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の廻向の御名なれば
功徳は十方にみちたまう


私には凡愚劣悪な自分を恥じる心も真心もない。しかし、阿弥陀仏はこの様な私を浄土に収め取るために、南無阿弥陀仏の名号を廻向してくださった。
その廻向の功徳は私自身や宇宙の衆生にもゆきわたっている。

五 小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべし


私は衆生を少しも慈しまなく、衆生の不幸を悲しみもしないし、衆生を助けもしない。この様な慈悲を持たない者は弥陀の本願の船に乗らなければ、
どうして生死輪廻の苦海を渡ることができよう。

六 蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなうまじ
如来の廻向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん


蛇や蠍のように悪心に満ちた心でもって、善行を修められる道理が無い。
阿弥陀仏の真実清浄心の廻向を頼まなければ、凡愚劣悪の心を恥じることなく、命が尽きるであろう。

七 五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり


五濁が広がった末法の世の現れとして、僧侶も道俗もが外見は仏教に帰依するようなふりをして、内心は煩悩かなえる教えである邪教を敬い信じている。

八 かなしきかなや道俗の
良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす


悲しいことです。今の世の僧侶や俗人も目先の欲望を満足させるために、日時や善悪吉凶を選んでいる。
現世での幸せを与えるとされている天の神や地の神を敬っている。占いや祭祀でもって幸せを得たり、災いを除こうと思って努力している。

九 僧ぞ法師のその御名は
とうときこととききしかど
提婆五邪の法ににて
いやしきものになづけたり


僧や法師という人たちは尊び敬うものと聞いていた。しかし、今は提婆達多が五邪の法を説いたのに似て、我欲を具えた賤しい心の者というように名づけられた。

十 外道梵士尼乾志に
こころはかわらぬものとして
如来の法衣をつねにきて
一切鬼神をあがむめり


今の世の僧侶の心の中は、外道であるバラモン教徒やジャナイ教徒と同じである。
外見だけは釈尊と同じ袈裟を着て、全ての外道を敬い信じて、自分の欲望を満たそうと努めている。

十一 かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬する


悲しいことです。今の時代の僧侶も俗人も全て、外見だけは仏教の作法を守っているように見せていて、内心は欲望の満足のために、天の神や地の神を敬っている。

十二 五濁邪悪のしるしには
僧と法師という御名を
奴婢僕使になづけてぞ
いやしきものとさだめたる


今が五濁邪悪の時代のあることのしるしとして、下男に下女を小僧・坊主・尼と呼んでいて、僧や法師という尊い名前を賤しい者をあらわす言葉としてしまっている。

十三 無戒名字の比丘なれど
末法濁世の世となて
舎利弗目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ


戒律も守らない、名前だけの僧侶である者でも、修行する者も、悟りを開く者もいない末法の世には、釈尊の弟子の目連尊者と同じように尊い。
名前だけの僧侶をも供養し敬い尊ぶべきであると、伝教大師最澄は「末法燈明記」で説かれ、勧めておられる。

十四 罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき


罪業は実体としてあるのではない。真実を知る智慧がないために、実体と思っているに過ぎない。人の心は本来は清浄ある。
清浄である本性に背いて悪行を好む末法の時代である故に、真実の徳を備えている人はいなくなった。

十五 末法悪世のかなしみは
南都北嶺の仏法者の
輿かく僧達力者法師
高位をもてなす名としたり


末法悪世の悲しきことは、奈良や比叡山で、輿をかつぐ者に僧侶の姿をさせている。輿に乗る高位の僧侶は自分を尊い者に見せるために、
輿をかつぐ者に僧とか力者法師という名前をつけている。

十六 仏法あなずるしるしには
比丘・比丘尼を奴婢として
法師僧徒のとうときも
僕従ものの名としたり


世俗の者が仏教を軽んじていることの現れとして、奴婢に剃髪させて僧侶や尼の姿に似せて、使っていることである。
使用人に小僧・坊主・尼という尊い名前をつけていることも仏法を軽んじていることのあらわれである。