私の人生                                                  トップページへ



 私は高校を卒業するまでは、熊本に住んでいた。物理学を勉強するために、大学に進学したかったが、私の家は進学する為の余裕ががなかったので、自分の生活費

も得られて、大学にも通学する為には、昼間は働き、夜に大学に通うという道しか思い浮かばなかった。

 高校の就職担当の先生にお願いして、東京の会社に就職出来るように、取りはからってもらった。そうして、念願の東京の会社に入社出来、大学の夜間部にも入ること

が出来た。希望通りになったことは嬉しかった。それから会社に勤めながら、夜は大学で学業をするという生活が始まった。

 寮は新築されて、まだ二ヶ月くらいしか経っていなかったので、綺麗で、二人部屋だった。六畳くらいの広さで、真ん中を本棚で仕切ってあり、ベットが置いてあるという

簡素な部屋であった。一人で使える空間は狭いし、ただ寝るためだけに作られたような部屋であった。

 私の住んでいた部屋は、まだ誰も使っていなかったので、私が初めての住人であった。その後、二ヶ月くらい経ってから石井さんという人が入ってきた。

「狭いでしょう?」と私が言ったら石井さんは「田舎では自分の部屋がなかったので、自分の部屋があるだけでもいいです」と答えた。

それから、この寮を出るまでは石井さんと同居することになった。「一緒に暮らすので宜しくお願いします」と言うと石井さんは「こちらこそ初めての寮生活ですので、いろい

ろ教えてください」と、言った。

右隣の部屋には椎名さんという人が住んでいた。大学を卒業していて、二年間くらい経っていると、誰かが言っていた。顔をあわせた時に挨拶するくらいの、付き合いであ

った。何か重荷を背負って、生きているような雰囲気がある人で、あまり過去の事は喋らない人だった。

 左隣には松沢さんという人が住んでいて、誰とでも臆せずに話す明るい人であった。 私と会った時も自分の過去や、今の仕事の事などを、きさくに話すのであった。

 私は毎朝六時に起きて、寮から歩いて十五分位の距離にある私鉄電車の駅から乗車して、会社の工場に通勤していた。工場の周囲には畑がたくさんあり、静かな環境

で、私の田舎の情景と似ていたので、好きだった。。

私に与えられた仕事は、会社で研究開発している研究の下働きであった。研究開発している人たちは、ほとんどが大学を卒業していて、高卒は私と石川さんの二人だけ

だった

 石川さんは私の寮から歩いて、三十分くらいの所に住んでいた。研究開発の部門の人達のなかで、親しく話す人は石川さんくらいだった。同じ境遇が、そのようにする

のかもしれなかった。石川さんは私より十歳、歳上であり、大学出の人たちに伍しても遜色のない働きぶりであった。手先が器用で、開発に必要な機械なども、直ぐに作

ることが出来た。器用さをかわれて、上司からも重宝されていたようであった。

 私は石川さんの人格を尊敬していた。石川さんのように仕事ができればいいなと思っていた。

 私は私と同じ歳くらいの大卒の者には敵愾心を常に持っていたので、同じ歳の大学出の者から、仕事の事で命令されるのは、嫌であったが、表面では素直に聞いてい

るような素振りをしていても、心の中では承諾出来ないものがあった。しかし、大卒者は、専門知識の量では、私よりはるかに優れていた。

 私が生活の糧を得るために汗水流して働いているときに、彼等は大学で自由を享受し、勉強していたのだから、知識量で私が劣るのは当然であった。しかし、仕事では

負けたくはなかった。

 大学で学んだ知識が会社という実務の世界で直ぐには役にたたないことは、私にも分かっていた。

 私の仕事は開発した商品を作るという単純作業をすることであり、上司からの命令は絶対に従わなければならないのであった。仕事で疲れてしまう頃には、勤務時間が

終わる、五時になった。残業は免除されていたので、そのまま都心にある大学に電車を乗り継いで行った。

 大学に着いて直ぐに、生協の食堂に行って夕食を食べた。安価で食べられるのだが、味は旨いとは言いがたかった。食べ終わると、直ぐに一時間目の授業に出た。三

時間目まで授業があったので、寮に帰るのは十時頃になった。

 このように、会社、そして大学の夜間部で勉強するという単調な生活の繰り返しで一日が終わるのであった。私は四年間で大学を卒業しなければならないという事を、

心に言い続けていた。

 私は高校を卒業して、会社に入り、仕事をやってきたが、大学を卒業して入社した人も、いろいろ悩みながら仕事をしているのを、既に知っていた。大学を出たからとい

っても、会社に出勤し、毎日、平凡な仕事をすることには変わりがないのであった。

 大学でのクラス担任は鹿田教授だった。夜間部の学生は、いろいろな事情で大学に来れないこともあるので、そんなときに担任教授に相談することが出来るようにして

あるのであった。 私は鹿田教授にあまり親しみを感じることが出来なかった。入学して一ヶ月頃まで、私には親しい友人は出来なかった。それは生来の羞恥心が災いし

ている事によるのであった。二ヶ月ほど経ってようやく、同じクラスの小林さんと世間話や授業の内容のことを話し始めることが出来るようになった。小林さんは私と歳も

同じであるので話しかけやすかった。小林さんは四国の、小さい町の出身であった。

「夜間部で学ぶのは大変なことだね」と私が言ったら、


「そうでもないですよ」と返答したので、私が「どうしてなの」と聞くと、小林さんの勤務している所が、電車を使えば十五分くらいの短時間で来れるところにあると説明してく

れた。私は大学まで来るのに、電車で一時間半くらいかかるので、その時間が負担に感じていた。

 いろいろなことを話すようになってからの事だが、 

「小林さんはどこに勤めているの?」と尋ねたら、私も知っている、或る官庁の名前をあげた。小林さんは、大学に通学できやすいように、その官庁から残業はしなくてよ

い、勤務の空き時間には大学で使っているテキストを勉強していてもよいなどの、便宜を与えられていると話した。私が「恵まれている所に勤めているね」と話しかけたら。

「傍目からは、そのように見えるけれど、職場ではいろいろ嫌な事もあるんだよ」と言った。

 私は高校は進学校ではなく、工業高校だったので、普通教科の履修時間数が極端に少なかった。私は英語が不得意科目だった。大学で使っている英語のテキストは

私の英語力では、読むことは難しかった。大学では、英語は必修科目でもあったので、必ず単位を取らねばならないのであったが、一年生の時は英語の単位を取れなく

、二年生になって、漸く単位を取ることが出来た。英語の実力をつけるために、英語の参考書や英語の小説を読んでみたりして、自分なりに努力した。第二外国語はドイ

ツ語だった。ドイツ語は、ほとんどの学生が初めて習う教科であるためにハンディーはなかった。初級の文法から始めて、文法の勉強がひと通り終わってから、易しいドイ

ツ語の小説を読み始めた。ドイツ語のテキストを読むのは、楽しかった。ドイツ語が読めるようになったら、ゲーテやヘルマン・ヘッセの著書を原書で読みたいという望み

がでてきた。ゲーテのドイツ語の本は買ったが、最後まで読み通すことは出来なかった。今は、ほとんどドイツ語も忘れてしまっている。

 専門科目の物理の教科は好きであるので毎日、欠かさず講義に出た。大学に入学したいと思ったのは、物理を勉強したいという希望があったからだった。物理を学べ

ば、自然界で起こっていることの、真理が理解出来ると思っていた。

 一年生で物理概論という科目があった。初めて本格的に物理を学ぶのである。胸がときめいた。このような気持ちになったのは、今までの人生で何回もあることではな

かった。

 高校でも物理の教科は習っていた。好きな教科だから、進んで勉強したことが思い出される。

 高校時代の友人に藤田君という者がいた。藤田君も私と同じように物理や数学がよく出来た。穏やかな性格であったので、私と馬があった。その頃、手作りのラジオを

作ることが、流行っていた。田舎の町であったから、ラジオの部品を売っている店は無かったので、通信販売でラジオキットを買って、ラジオ製作をした。当時は、まだ真

空管を使っていたので、作ったラジオは大きな装置になった。藤田君は電気工学の豊富な知識もあり、手先が器用だったので、私はラジオを作っている時、分からない事

などがあると、藤田君の自宅を訪れて教えてもらったことが何度かあった。

 自分で造ったラジオに、最初に電源を入れる時は動くかどうかという不安と、期待の気持ちが交差した。これは実際に作ってみなくては体験出来ないことだった。ラジオ

から放送の声が聞こえたときは、たいへん、感激したものであった。

 私が高校生の時に、東京オリンピックが開催された。体育の先生はテレビで観戦して、競技を見ての感想をレポートにして、提出しなさいという課題を与えた。レポート

の良し悪しも成績をつけるときには、考慮するというので、多くの競技を観戦した。記憶が薄れているので、どんなレポートを出したのか、はっきりとは憶えていないが、マ

ラソンで優勝したアベベの事を書いたような気がする。

 私は、高校時代から、暗い性格であることを自覚していた。父は毎日のように酒を飲んでいたし、母は大人しい性格であり、父を注意すると、父は母を殴るのであった。

酒がはいると、乱暴な父であったが、酒を飲んでいない普段の父は、無口で大人しい性格に変わるのであった。そんな無口な父は私と話すことは少なかった。私の暗い

性格はこのような家庭環境のためだった。友達も少なかった。高校では藤田君が唯一の、何でも話せる友人だった。

 隣に坂田さんという方が引っ越してきた。大きな市から来たという噂だった。坂田さんの家庭を見ていると、なんとなく、洗練された雰囲気があった。坂田さんは三人家

族で、子供は娘さん一人だけだった。 私が朝食を食べている頃には娘さんは高校へ行くために、家を出て行った。この市から数キロ離れている場所にある名門高校へ

電車で通学していると、誰かに、聞いていた。偶然に出会う時など、娘さんは会釈をしてくれた。清楚で気品のある様子が、立ち居振る舞いから窺えた。私は名前も知ら

ない娘さんに好意を持ち始めていた。

 日曜日に隣の家で、ピアノを弾いている時があった。娘さんが弾いているのだなと思いながら聞いていた。音楽の知識にうといので、誰が作曲したのか分からないが、

クラシックの曲であるらしいことは分かった。聴いていると心が落ち着いた。娘さんは学業も優れていたようだった。大学受験のために夜遅くまで勉強していることが、部

屋の灯りが深夜にも点いていることから分かった。

 私は六十代の歳になって回想すると、辛く嫌なことが高校生時代にもあったが、その頃が私の人生のなかでは、一番輝いていた時代だったような気がする。将来に夢

があり、夢中で、趣味や運動や学業に打ち込んでいた。

 高校を工業高校に選んだときから大学に進学することは、すでに諦めていた。三年生になってからは、普通教科の時間がほとんどなくなって、専門教科の時間が極端

に多くなった。私は電気科を卒業したが、電気科のクラスの中で、大学へ進学した者は誰もいなかった。卒業したら就職するので、普通教科の勉強はおろそかになった。

普通教科を教える先生方も、あまり熱心な授業ではなかったようだった。でも、先生方のなかには、私たちは大学へ進学しないので、高校で習う普通教科が最後の授業

になると思われたのか、熱心に教えてくれる先生もいた。歴史を教えてくれた丸山先生が、そのような先生だった。いつも教科書に載っている資料以外の資料の全文を

印刷してくれて、私たちに配り、説明してくれた。ただ、歴史上の人物の年代を暗記するのではなくて、資料を使って、その人物の生き方や、その時代の様子を具体的に

教えてくれた。お陰で、日本の歴史の見方が変わった。各時代の人物の生き方を通して歴史を見ることが出来るようになった。

 現代はいろいろな面で便利な物で溢れている。人間は肉体的には、あまり努力する必要が少なくなった。機械が人間に代わって仕事をしてくれるからである。しかし、現

代人が昔の、例えば日本の中世時代に生きた人間より幸福かというと、そうだとは言い切れない。確かに中世に生きた人々は現代人が享受している利便性はなかった。

しかし、生がそのまま剥きだしの時代には、快適な生活に慣れている現代人にはない、逞しい生き方をした人物がたくさん現れた。仏教界では法然、親鸞、日蓮、道元と

いうような人々である。彼らは新しい宗派を創ったのであった。既成仏教が見捨てていた庶民たちを救う教えを広めたのであった。

 親鸞の生き方を丸山先生に教えてもらった時に、親鸞に興味を持った。親鸞の弟子の唯円が、生前の親鸞の教えを綴った書物であると言われる歎異抄を読もうと思っ

た。私の町で、唯一の古本屋へ行き、岩波文庫の「歎異抄」を買った。一九三一年に初版が出ている本であった。薄い本で、九十二ページしかなく、表紙にはシミがあり、

汚れてもいた。本文のページも日焼けして、文字も薄くなっていて、読みずらかった。

 一章から読み始めた。「弥陀」、「誓願不思議」、「摂取不捨」と言う言葉が出てきた。弥陀とは何のことをいうのか、ほとんど理解出来なかった。誓願不思議とは、何か

を誓ったと言う意味なのかな、摂取不捨とは捨てないことかなと思った。一章で、親鸞が何を言おうとしているのか分からなかった。小説を読むようには面白くなかった。

理解も出来なかった。途中で読むの止めようかなと、思ったことが何回もあった。意味が分からなくても、歴史を教えてくれた丸山先生も推薦してくれた本であるので、通

読はしようと決心して、また読み始めるのだった。

 高校生の私が読んだ歎異抄は全然理解することができなかったが、今の歳になって、私なりに分かったような気がします。

 会社では上司の石川さんの指示を受けて、研究開発の仕事をこなしていた。

「今日は昨日、出来なかった実験の続きをやってくれる」と石川さんが話かけた。

「よいですよ、今日は、きちんとした結果を出します」と答えた。

 石川さんには、仕事上の事で、私だけの力で解決出来ないことは、よく相談した。そんなときも快く話を聞いてくれて、適切な助言をしてくれるのだった。

 石川さんの上司の川上主任は私のことを何かと気にかけてくれていた。

「今大学でどんな事を勉強しているの」と、よく話しかけられた。

「物理概論です。それを教えてくれる教授の伊沢先生の授業が分かりやすくて、物理学の本質を改めて教えてもらったような気がします」と言った。

 川上主任も国立大学の電気工学科を卒業したので、物理学も一通りは勉強されていた。仕事の合間に物理学の授業で分からないことを尋ねたりした時には、こころよ

く教えてくれた。だから、今の職場は私にとっては恵まれていると思っていた。

 私は、昼は仕事、夜は勉強という生活は知らないうちに疲労が溜まっていたのだろう、職場に出勤する事が出来なくなった。自分の部屋に引きこもっている日数が二~

三日経った頃、上司の石川さんが訪ねて来てくれた。

「どうしたの、会社にも大学にも行っていないようだけど」

「会社に行っても、人間関係が思うようにならないし、今私がやっている仕事は誰にでもやれるような、単調な仕事だし、こんな事をしていては、自分が向上できないような

気がするのです。でも、大学には行っていました」と言うと、石川さんは私の気持ちが分かるような眼差を向けて、「私も君の気持ちがよく分かるよ。大学出のなかで、私一

人が高校出という職場で長いこと働いてきたんだ。同僚は口にだして、高校出の私のことを見下したことは言わないが、内心では見下していることが分かるのだよ。でも、

私をよく評価してくれる上司に恵まれたのが良かったのかもしれないがね、その人達が居たから二十年近く、この職場で働き続けられたと思うんだよ。私も、上司の川上

さんも君の働きは良く評価しているんだよ。職場の全員が君のことを認めてくれなくても数人でも、評価してくれる者がいれば、きっと仕事は続けられるよ」と、言った。私

は石川さんの話を聞き終わると、涙が頬を流れた。石川さんの心と私の心が通じ合えた気持ちがした。「明日から仕事に行きます。今日は石川さんが私のために訪ねて

来てくれた事が嬉しかったです。また、私には好きな物理学を大学で学ぶという目標も有るのですし、一歩ずつでも、今の自分より向上していきたく思います」石川さんは

喜びの顔を私に向けながら、「良かった、君が元気になって仕事をしながら大学で学ぶという決心をしてくれたことが嬉しいよ」と言っくれた。

 私は、これまで、この世の中で一人ぼっちで、頼る人がいなく、自分の力で、がむしゃらに生きてきた。辛いことや悲しいこともたくさんあった。自分の力で乗り越えてき

たと思っていた。しかし、今にして思うと、私に縁のある人の助けがあったので、今の自分が在るのだなと、素直に思えるようになった。

 大学には毎日行った。興味のある授業は「物理概論」と「ドイツ語」になっていた。他の授業には出るには出るが、熱心に聞く事がなくなっていた。伊沢先生の「物理概論

」の授業は欠かさずに出た。物理の本質を教えてもらっているような気持ちがした。伊沢先生は理論物理が専門であるらしかった。物理の理論を構築するときは、白紙の

状態から、推論と試行錯誤を繰り返しながら、新らしい理論を創るらしいということが、おぼろげながら分かった。

三年生の時、伊沢先生の研究室を訪ねた。三畳くらいの広さの部屋であった。蔵書は、ほとんどなかった。物理関係の雑誌が書棚を一杯に埋めていた。 遠慮がちに「

伊沢先生の授業の物理概論が、よく理解出来ます。物理学の本質を教えてもらっているような気がします」と言ったら、伊沢先生は私の顔を憶えてくれていて、「君がいつ

も前の席に座っていて、熱心に私の話を聞いていることは分かっていたよ」と話された。私は憶えてくれてもらっていた事が嬉しかった。私は四年生になったら、どこかの

研究室に入って、物理を研究することが必修であることを知っていた。それで、「四年生になったら伊沢先生の研究室に入りたいのですが、よいでしょうか」と聞いてみた。

「君がそのような希望であれば、私の研究室に入ればいいですよ」と言ってくれた。

四年生になった私は、伊沢研究室に希望通りに入れた。どんな事をしているかというと、伊沢先生が決めた理論物理の本を一年間かけて読むということをしていた。各研

究生が、自分の担当するページを決めておいて、そのページの内容を分かりやすく発表して、進めていくという形式であった。これを輪読と言うそうである。この形式で理

論物理の本を読んでいくと、各研究生の物理学の理解度がよく分かった。私には分からない数式の意味を簡単に解きほぐして、説明できる研究生が、ほとんどだった。

研究生の優秀なことが分かった。私は担当のページを説明する番になった。一箇所だけ、どうしてこんな数式が出てくるのか、いくら考えても分からなかったので、素直に

この数式の意味が理解出来ないと言った。そうしたら、伊沢先生が、私の代わりに説明してくれた、先生の説明を聞くと、そうだったのかと、得心することが出来た。伊沢

研究室でも、自分の理論物理の理解度が、未熟であるという劣等感に悩まされた。でも、そんな私でも伊沢先生の助けで、一年間かけて難解な本を読み通すことができ

た。読了したときは、自信と充実感が実感できて、嬉しかった。

 どうにか大学を卒業することが出来た。ついにこの日が迎えられたのだ。今まで、二十数年間生きて来た中で大変嬉しかった事だった。大学を卒業したが、まだ物理学

を学びたい気持ちがあった。できれば大学院に入りたかった。夜間部の大学院は無かったので、国立大学の大学院を受験しようと考えた。伊沢先生にも相談した。「先

生は物理学を深く研究するならば、進学することは良いことですから、やってみたらいいですよ」と話された。先生には大学院の受験に必要な、推薦状も書いてもらった。

さっそく、受験のために模擬問題を解いてみた。しかし、私には物理学の実力が十分についていないのは分かっていたが、難しい問題がどんなに考えても解けないので

あった。これでは大学院に入ることは無理だなと自得した。また、大学院に進学する事になったら、会社を辞めなくてはならないのである。そうしたら、生活費と学資を得

る道が無くなることを意味するのであった。結局、私は大学院進学を諦めた。このまま、今の会社にとどまる事に決めた。

 職場では、同僚や上司の態度が変わった。私が大学を卒業したからか、自分たちと同じレベルの人間であるという接し方をしてくれた。

 毎日、定刻に会社へ出勤する、残業をする、独身寮に寝るために帰るという平凡な事の繰り返しの日々を送った。

 寮では、私の部屋の右隣に入っている椎名さんとは親しく話すようになっていた。性格がよく似ているからであろう。日曜日には寮のホールや近くの喫茶店に入って、話

すようになった。最初の頃には、椎名さんの家族や郷里の事、私の家族の事などが話題になった。椎名さんは地方の国立大学を卒業していた。家庭は裕福でなかったの

で、アルバイトをしながら、自分で学資を稼いで、ようやく大学を卒業することが出来たという話をしてくれた。親しくなるにつれて、現在、私たちが会社で苦労している事や

人生観や将来の夢などを話し合った。私は高校の頃から小説や仏教書を読み続けていた。椎名さんは大学は機械工学部を出ていたからか、小説や仏教の本は、ほとん

ど読んでいなかった。唐突に私が聞いた。「我々が生きていくことにどんな意味があるのでしょうか、生きる目的は」椎名さんは、「ただ生きているから生きているんじゃな

いのかな」と返答した。私が夏目漱石の小説を読んだ感想などを話しても、椎名さんはその作品を読んでいなかったから、感想を話すことは出来なかった。しかし、小説

や人生論のたぐいの本をたくさん読んでいるからといって、生きている意味が、分かるとは限らないと、今の私は思っている。石川さんは確かに小説や哲学などの本は読

んでいなかったが、現実を生きるという事では、いろいろな体験をしてきているのであった。私は頭の想いで、人生の意味を理解しようとしていたと思う。椎名さんは現実

に今、生きているという事実をしっかりと認めて、自分の務めを果たしていくのが、人生の意味であると考えていたようだった。椎名さんのこのような考えは、頭の想いで

人生を考えようとしていた私にとっては、反省の機会を与えてもらった気がした。

 高校生の時には歎異抄を読んでみて、まったく理解できなかったが、今の私は歎異抄を自分なりに、理解していると思っている。阿弥陀如来の本願という意味も漠然と

だが、解かった。信仰に入るというのはお釈迦様が説かれた教えを信じることなんだ。理屈で阿弥陀如来の存在を証明することではないんだ。阿弥陀如来の促しにより、

念仏を称えさせていただいて、この諸行無常の世の中で、煩悩をたくさんかかえた凡夫の私にも救いを与えてもらえるのである。

 私は二十代の頃から、悩みが生じた時は坐禅しながら念仏を称えるようになっていた。坐禅を始めた頃は心の中に雑念ばっかりが浮かんで、澄んだ心境にはなれなか

った。しかし、坐禅を続けていると、雑念は単なる私の嘘の心の想いということが分かった、そのまま、ほっておくと、いつのまにか消えていた。

 念仏は日常生活のいたるところの場面で称えていた。たとえばトイレの中でも。自分のはからいを捨て、阿弥陀如来の救いを信じて念仏を称える。迷いは迷いのまま、

受け入れると、心が澄んだ心境になれるようになった。 世の中で生活しながら仏教を信じて生きている私のような在家の仏教徒は、厳しい修行が出来る環境にいないし

、また、厳しい修行に耐えることが出来ない者が大多数であろうと思われる。そのような者のために阿弥陀如来は本願を誓われて、凡夫の私のような者でも、現世で救い

取ってくださるのである。

 私は、親鸞聖人の教えを信じることで、この世で救われていると実感できる。苦悩、対立、不安、貧困、人間関係のトラブル等々、これらの難局を越えることが出来るか

どうかと悩んだが、親鸞聖人の教えと歎異抄で、何とか乗り越えて来られたと思っている。

 浄土真宗は易行と思われているようだが、まことに悟りの境地に達している者は、親鸞聖人が存命の時から現代までの間でも、僅かな人数であると思われる。悟り(信

心獲得の体験)は易行門の宗教である浄土真宗でも、困難である証拠である。

 現代、仏教宗派のほとんどが、葬儀をとり行うという事だけをやっている。宗祖の教えである、悩める衆生を救うという事から遠く離れているのである。

 日本の現代社会の混乱は政治、経済、教育、宗教等々の各部門で起こっている。まさに世の中が混乱して、出口が見えないでいる。全ての混乱の要因は、人間の利己

主義から生じている。民主主義のはきちがえをしていて、自由には責任が伴うことを忘れてしまっている。自分さえよければ他の人間はどうでもよいと、大多数の者が思

っているのである。拝金主義者は、お金が全てだ、お金で人の心も買えると言って憚らない。何という畏れをしらぬ言動だろう。自分の利益のためなら虚偽の名前を商品

名につけて、客に売りつける。教育界でも、お金の力で教員採用や昇進が決まるという、何とも破廉恥の事が行われているのである。今の世の中は、特に、上に立つ人

の道徳心が失われている。国民はそんなリーダーを信頼していない。現代日本には己の、一命をかけても国民のためになることを行うという、使命感を持ったリーダーが

いない。この原因の一つには、戦後七十年の教育の失敗に帰すると思う。それと、アメリカから、与えられた民主主義のはきちがえである。自由とは自分の欲望を満たす

事だけであると考えていては、世の中は修羅場となるのが当然である。

私は思う。六十代の歳まで生きて来られたのは歎異抄と親鸞聖人の教えのお陰だと。私は阿弥陀如来によって摂取不捨のご縁をいただいた